2011年7月12日火曜日

洛陽道  儲光羲

大道直如髪   大道 直きこと髪の如く 
春日佳氣多   春日 佳気多し
五陵貴公子   五陵の貴公子
雙雙嗚玉珂   双双 玉珂を鳴らす 


洛陽道は都洛陽の大通り。
真っ直ぐ長い髪のように伸びている。
春日は佳気多し、とは春の日のうららかであること、
うきうきさせるものが多いこと。
ただ天気がいいというのではない。
佳人を「よきひと」と読むのにおなじ。
五陵は場所。有閑の貴族子弟や遊侠の徒が集まる繁華な場所。
双双は擬音語。玉製の馬具『玉珂』が触れ合って立てる華麗な音である。  

律動は以下のように分節される。

大道|直|如髪
春日|佳気|多
五陵|貴公|子  (貴|公子 と分けるべきか…?)
双双|鳴|玉珂 

詩経のなかに「綢直如髮」という表現がある。
髪と道ではずいぶん違うようにも思えるが、
大道(ひろびろとした道)が長い髪のように真っ直ぐ伸びているのだ。

訂正) 
<長い髪をほどくように真っ直ぐ>ではなく、南北に縦横に伸びている都会の街路の様子を髪の毛がぎっしり纏まっているように密集した直線だととらえて表現しているのだ。「綢直如髮」との古典を踏まえた言い方をしていると思う。都人士(雅な人たち)という古い詩を踏んで今の都を詠うという仕掛け。しかし「髪」という連想はここで効果をもつことは動かないだろう。豊かで真直ぐな髪が女性を連想するということも織り込み済みのはずだから。
髪のように真っ直ぐでどこまでも伸び広がっている街への想い。

大道は地、春日は天(時)、貴公子は人、そしてさんさんと鳴る玉の馬具は繁栄を象徴している。 どこか「祝祭性」の感じが漂う詩だ。

日常を切り取るかに見えて実は…多分に「越境」している。
こう解してよいのだろうと思う。

安史の乱が起こる前の太平楽然とした洛陽の風俗を抽象的に
ただ双双と鳴る玉珂に焦点を結んで切り取って見せた詩である。 

その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな 与謝野晶子 

「みだれ髪」 この歌でも具体的な対象は櫛と髪。
二十という時春という時が輝きと色と重さをもっている。 
春と青春をともに掬い上げて残すところのない詩歌ふたつ。


【追記】 
「綢直如髮」について
綢: 繆也。謂枲之十絜,一曰綢繆二義皆與繆同也。 
今人綢繆字不分用然詩都人士單用綢字曰綢直如髮
毛傳以密直釋之。則綢卽稠之叚借也。
从糸。周聲。直由切。三部。按此二篆疑有譌亂。(説文解字)

<詩経 小雅 都人士2 >
都人士:
彼都人士、臺笠緇撮。
彼君子女、綢直如髮
我不見兮、我心不說。

詩經 小雅 都人士:
「彼君子女,綢直如髮。」
鄭玄˙箋 :
「其情性密緻,操性正直,如髮之本末無隆殺也。」




2011年7月9日土曜日

064 江南旅情 祖詠


064 千家詩
江南の旅情  祖詠

楚山 極むべからず
歸路 但だ蕭條たり
海色 晴れて 雨を看(み)
江聲 夜   潮を聽く
劍は南斗に留りて 近く
書は北風に寄せて 遙なり
為に報ず 空潭の橘(きつ)
洛橋に寄するに媒(なかだち)無し

祖 詠(そ えい、699年 - 746年?)は、中国・唐代の詩人。洛陽(河南省)の出身。
王維と親交があった。 開元12年(724年)、進士に及第したが、官職は得られず、
汝水(河南省を流れる)のほとりの別荘に引きこもって、農耕生活を送った。
http://talent.yahoo.co.jp/pf/detail/pp455849

祖詠(699?~746?),中國唐代詩人。洛陽(今屬河南)人。
開元十二年(724年),進士及第,長期未授官。後入仕,又遭遷謫,仕途落拓,後歸隱汝水一帶。

有詩名,與王維交誼甚深,有詩唱和。王維《贈祖三詠》
一詩說:“結交二十載,不得一日展。貧病子既深,契闊餘不淺。”可見其一生困頓失意,仕途坎坷,生計惟艱。
其詩多寫田園、隱居,風格接近王、孟詩派。
個别詩篇也寫得情調昂颺,氣勢豪放。
《全唐詩》錄存其詩一卷。
事見《唐才子傳》卷一。



* 江南旅情(강남여정) - 祖詠(조영)

楚山不可極(초산불가극) : 초산은 멀어 끝까지 갈 수 없고
歸路但蕭條(귀로단소조) : 고향가는 귀로는 쓸쓸하기만 하구나
海色晴看雨(해색청간우) : 바다 위 하늘은 맑다가도 비가오고
江城夜聽潮(강성야청조) : 강물소리 밤에 들으니 조수 소리네
劍留南斗近(검유남두근) : 이 몸 머문 곳 남두성 가까이라
書寄北風遙(서기북풍요) : 편지를 부치자니 북풍은 멀기만 하네.
爲報空潭橘(위보공담귤) : 담귤이 유명함을 알리고 싶지만
無媒寄洛橘(무매기낙귤) : 낙양으로 보낼 방법 찾을 길 없네.
()の中は韓国の漢字音らしい。

2011年7月6日水曜日

 旧いノォトから

どうして山里になんか棲むのだい?


山中問答 李白
問余何意棲碧山
笑而不答心自閑
桃花流水杳然去
別有天地非人間


山中問答    李白
余に問う何の意ありて碧山(へきざん)にか棲むと
笑って答えず心自ら閑なり
桃花流水杳然として去ぬ
別して天地の人間(じんかん)に非ざる有り


問うものがいる、どうして草深い山中に棲むかと。
無理もないかと答えずに笑っている、長閑な心で。
桃の花びらが水に落ち何処へやら遠く流れていく。
ここはそれ、世間様とはかけ離れているのさ。


これは自分の愛唱詩だ。


黛まどかさんから届いた「俳句でエール」には
蓬もちの句が入っていた。


嫁姑声の似て来し蓬餅   渡部トヨ


田舎の嫁と姑は、農作業の共同作業で同じ経験を
分かちあうから、いつしか女同士認め合うことになり
次第に共通するしぐさも持つようになったりする。
この句では、声まで似てきているのだ。
働くものの伸びやかな声のさざめき。
仕事上がりのお茶と蓬餅が和やかな場にある…
田舎暮らしにも好いことはあるのだ。


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