天皇疑皇女不在 天皇皇女の不在を疑い、
恒使闇夜東西求覓 恒(あまねく)闇夜を東西して求め覓ぎさせしむ。
乃於河上虹見 乃ち河の上(ほとり)に虹見(あらわ)ること、
如蛇四五丈者 蛇(之)四五丈なる者の如し。
掘虹起処而獲神鏡 虹の起ちし処を掘りて神鏡を獲、
移行未遠得皇女屍 移行すること未だ遠からざるに皇女の屍を得たり。
割而観之腹中有物 割きて之を観るに腹中に物有ること、
如水水中有石 水(水)中に石有るが如し。
三年の夏四月、阿閉臣(あへのおみ)国見(くにみ)栲幡皇女(たくはたひめ)と湯人(ゆえ)の廬城部連(いほきべのむらじ)武彦(たけひこ)を譖(そし) りて曰く、「武彦、皇女を汚して 使任身 (文字通りなら使が身を任した、の意。しかし使皇女任其身で皇女をしてその身を任せしむ、と言いたいのだろう。 任身を妊娠の誤写と見るのは早計と思う) 身を任せしむ」
湯人此れをユエと云う。
武彦之父たりし枳莒喩(キコユ)此の流言を聞く。禍ひ身に及ばむことを恐れて
武彦を廬城河に誘率(いざな)ひき。
偽りて鸕鶿をして水に没せしめ捕魚せしめんとす。
其れに因って、不意而打殺之(普通なら打之而殺だろう。「うちころしぬ」の直訳か)(不意を襲ってうち殺した)
偽+使(鸕鶿没水捕魚)因+其不意而打殺之
小学館本では古訓を使っているが文の形式が他の箇所と類似するのでそれに従うほうが正しいだろう。
天皇、聞きて使者を遣し皇女を案(かむが)へ問はしむに、皇女対へて言はく、妾(われ)は識らずと。
俄(にはか)にし而、皇女神鏡を齎(と)り持ちて五十鈴河の上(ほとり)に詣(いた)りぬ。人の往行くことなきを伺(たしかめ)て鏡を埋め、経(わな)きて死せり。
天皇、皇女の不在(いまさざる)を疑(いぶかし)みて恒(つねに:ずーっと)闇夜に東西し求め覓ぐこと使(せし)む。
恒使闇夜東西求覓は恒+使(東西+求+覓)という構成と解するのがいい。東西は動詞で「東西する」(あちこちと歩き回る)だろう。「とさまかくさまもとめまぎし」を直訳したのだろう。使は「させた」、恒は「見つかるまで」を含意した「ツネニ」だろう。
乃、於河上、虹見如蛇四五丈者、掘虹起処而獲神鏡
乃(すなはち)於河上(河のほとりに)虹見(あらは)る。蛇の四五丈なる者の如し。虹の起ちし処を掘り而神鏡を獲たり。
乃は口語的、説話的な語法という趣が強い。そうして、そのつぎに、そんなわけで、などなど。皇女を発見する前に鏡を発見するという筋立てはこの語りが鏡に主点のあった説話だということを示唆しているようだ。剣でなく鏡だというのも注目しておきたい。
移行未遠得皇女屍
移而行未遠得皇女屍:移り行くに未だ遠からずして皇女の屍を得たり。
「移りて行く」は鏡の発見場所からの移行だ。ほど遠からずして皇女の屍を見つけた。
割而観之腹中有物如水水中有石
割(さ)きて之れを観れば腹中に物の有ること水の如く、水中に石有りき。
この記事の文の特徴だが、文末が次の文の文頭となってもおかしくない形が見受けられる。
ここでも前の文末の「皇女屍」を置いて
皇女屍割而観之、腹中有物。でちゃんとした文になる。
皇女の屍を割きて観れば、腹中に物有りき。
そうすると
腹中有物如水水中有石:が腹中有物如水。水中有石。ではなくて
腹中有物、如水中有石。と区切るべきで、水水は重複と見做せる。
腹を割いて観ると物が有ってまるで水中に石があるような様子であった、ということで
水のような物が有って、その水の中に石が有った、という分かったような分からない文にはならない。
謂うところは羊水の中に「石」が有った、というのだ。胆石、尿石などと同様あり得ない話ではない。
文脈上は妊娠を疑われて自殺?して、死後腹を割かれるという残酷、しかも冤罪というわけで、
雄略天皇(このころは大王と書いたはずだが)の残虐を表現する素材として機能しているわけだ。
枳莒喩由斯得雪子罪還悔殺子報殺国見逃匿石上神宮
枳莒喩、斯れに由って子の罪を雪ぐことを得(う)。還って子を殺せしことを悔ひて、国見に報ひて殺さむとす。(国見)逃げ石上神宮に匿る。
ここも上の条と同じように国見は悔殺子報殺国見と国見逃匿石上神宮とどちらにも属すかのようだ。
こういう記述法は何か理由があるはずだ。
漢文として不自然なところのある記事として掘り下げてみたい問題をはらんでいると思うがどうか。
全体としても奇怪な記事だ。事実が含まれているのかどうかも怪しむべき内容だ。
いくつもの階層を区別してそれぞれへのアプローチを考えなくてはいけない記事だろう。
雄略が「大悪」と言われたという記事の直後のこういう記事だから、まずは「大悪」の行為を例示することを意図したものという視点が可能だ。
後続で「有徳」な雄略も出てきて、善悪の記述が混在している。
記事では皇女の屍を割いているのが誰か、命令したか否かも不明だが、
文脈的に天皇の関与のもとで起きたこととされていることは確かだ。
この記事の第一層は「雄略の行状記」という意味を帯びている。
次に、阿閉臣と廬城部連という対立で語られる層だ。
ヤマト、イガ、イセという地域性の問題か
在地在来豪族(臣)と中央直結勢力との対立の問題か。
天皇と斎宮という軸での懐疑と結末という物語形式という視点もある。
神鏡を神(あや)しき鏡と読む読み方も考えておくべきだろう。
鏡の埋納と虹=蛇としての出見(出現)という場面。
闇夜東西云々にもみられる漢文としての不備破綻らしき様相。
表現として重複矛盾する表現もある意味を帯びているように感じられる。
怪しいのは皇女のみでなく記事全体が謎めいているのだ。
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