2012年3月15日木曜日
心身一如という括り
ひと息にこの川跳びしは八月の五年生の脚下駄ばきのまま
この小さな身体のままで何年か先に離(か)りゆくこの世といふ所
さみしいよ 身体の中に退(すざ)れども壊れものの身体庇うてくれぬ
さいさいと包丁研ぎてゐたる日よ病気する前の心身一如
眠らせてくるる一錠春紫苑の花よりすこし紫の濃し
一日を漕ぎ渡りたる日輪が横ひろがりに膨れて沈む
ゑんどうの畑に明るい月夜なり白い花たち豆になりゆく
「心身一如」
<「庭」 河野裕子歌集 二〇〇四年十一月刊 砂子屋書房 より >
世間一般のひとびとにも知られる歌人の河野裕子氏が歌集の中に入れたひと束の歌。
それを「心身一如」という言葉で括っている。このひと束の中で使われているからなのは間違いないが、
歌集全体を生と死とそのあいだに立つ自分 を見定める眼差しが際立っている中で、
心身一如という言葉は回復や再生への抑えがたい願いが籠っているに違いない。
しかし歌たちは少しも剥き出しではない。
「さみしいよ」と始まる歌も引きこもるこころの拠り所としての身体が
身体ゆえに壊れものとして壊れていくその頼りなささみしさを「庇うてくれぬ」
と心と身体のそれぞれの孤立・孤独を認知するという、視る者のことばに終始している。
これは読み間違えそうだが繰り言を言うのではない。
繰り言でないからいっそう哀切である。
気持ちよく体がいっしょに歌っていた日々。
包丁研ぎにも主婦の味存分にしていた彼女の心身一如はそれを一如と意識もしなかった。
今は「さいさい」と音たてていた包丁と砥石のリズムが実は身体の中にもあったことが気づかれる。
そしてそれは失われてしまっているのだと「いま」を思い知る。
一日を漕ぎ渡りたる日輪が横ひろがりに膨れて沈む
ゑんどうの畑に明るい月夜なり白い花たち豆になりゆく
この二首は「裕子調」と行っても良いような世界像が歌われ
健康な時の河野裕子の歌と変わらないが、他の歌と並ぶことで
いのちへの憧憬がこの歌人の以前から変わらない生来のものと気づかされる。
ゑんどうの畑に明るい月夜なり白い花たち豆になりゆく
この生命感、明るい月夜に夜目にも白く咲くゑんどうの花が豆になっていく。
宮崎アニメの「トトロ」のシーンを連想しても構わない。
豆になりゆくゑんどうの間に居る裕子さんは自身もゑんどうの花なのか。
そしてひと世終えて豆になろうとしているのか。
もしそうなら
自分の死をこのように眺める(凝視でなく)眼で
活きている世界をみていた彼女をわたしは愛おしく思う。
ゑんどうの畑に明るい月夜なり白い花たち豆になりゆく
明るい月夜でなければならない。
そう思っている彼女をそう理解するわたしは
その瞬間だけは「おんなの身」に変容しているのかもしれないと思う。
河野裕子氏の歌に何故かそうなるのである。
読むだけのわたしの大語解(大誤解)かもしれないのだが。
自分の身体を地として万物の「かたち」に触れていった河野裕子の歌の軌跡。
全ては身体のように鼓動を持ち体温を持っていた。
たっぷりと真水を抱きてしづもれる 昏(くら)き器を近江と言へり
この歌にもわたしは人の身体の幻影を見る気がしている。
昏き器とは実はひとの心身一如としての「からだ」ではないのだろうかと。
「ひとよ(一世)」を終えた裕子さんにいまさら確かめる術もないのだが。
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