金子きみは大正四年、北海道北見サロマ湖畔の開拓農家で生まれる。
七歳、父の事業失敗で家族は旭川へ出て下駄屋で凌ぐ。
十一歳、サロマ湖の東芭露に再入植。
昭和十五年 尾崎士郎夫妻の媒酌で金子智一と結婚、二十五歳。
『戦前から現代までの激動期を、歌人・作家・平和運動活動家として活躍し、
2009年奈良県大和郡山市で94歳の生涯を閉じた。
歌人金子きみの残した口語自由律短歌には、
彼女の生き様と心の軌跡が飾られる事なく表現されている。』
その幾つかだが…
嫁ぐ日が近い 火ほどの恋愛は終に無かった 澄み切った月
命いっぱい愛すと言う わたし何を言えばいいのか わからないから泣いた
日差しの中でりんごの皮をむく 安易にもたれて嫁ぐをよしとする
かたみ見ぬ我が子への愛に固まり 朝陽夕日ほほに熱す
草へ座れば草の神話 我が身うちに居て聞くらしい子へ草を摘む
現し世のあらあらしく 胎児よ草路ゆくばかりの母と思うな
草いとしくてならぬ やがて秋草のその中に産み落とすいのち
地球が割れるように生まれて たちまち母子と言うつながりの盲目
新生児の息づかいをうかがう 誰でも親になれる この世の親しさ
あまる乳を朝のながれに流す さらさらとそのかなしみを流す
ためらいなく広げる胸のきよい悲しみを 児の瞳が吸う
この年に生まれし児よと 児をゆすり起こして聞く宣戦布告
宣戦 直ちに夫に報道班員の徴用令 選ばれたと言う眉を見つめる
何をか言わん日本男児 夫はみどり児に敬礼をして戦地に向かう
銃後の悲しみとしてはいけない悲しみを 乳児の目が吸いとってくれる
父は戦線とも 何とも知らず ヒヨコに驚き 麦の穂に驚き育つ児よ
おとうさんは戦地とおぼえた片言に 軍用機の影寄って来る
欲しがりません勝つまでは 空腹なだめて雑炊食堂の行列にならぶ
児の脱ぎ忘れた靴夕陽を吸っている しばし聞かざりし声を聞くような
下町空襲で十万死んだ 怒濤のような疎開者 わたしも山梨の山に逃れる
疎開者がむきだしで蠢く駅の地下道 負けまいと加わるボロボロの夢
疎開で借りた畑はとびとびで 背負子背負ってあっちの山こっちの山
遠州鍬に土の固さ 弱音はくまい 今に小麦がとれる さつま芋がとれる
蝮でもひっとらえて食わざ 土地の人栄養をとれと優しい
ここならてっきこないね 姉の子わたしの子 はだしでころころ遊ぶ
この戦争の本来をいつどこで知る 犬ころのようにかけて万歳
戦地の便り絶えて一年 山の疎開地でひっそり子に摘んだ桑の実
インドネシア独立の火の玉だよ 帰還の大宅壮一さん夫の近況をもたらす
民衆と仲良しでね 彼戦争の幸福者ですよと言われても分らない
以上は結婚から敗戦までの歌のいくつかである。
- 自由律短歌の一つの例として
- 戦前戦後を労働しつつ詠った女性歌人として
- 生活から平和の価値を歌い上げている
- 戦時下で反戦の目で歌っている
この戦争の本来をいつどこで知る 犬ころのようにかけて万歳
戦地の便り絶えて一年 山の疎開地でひっそり子に摘んだ桑の実
など、一つの短歌史の座標と思う。
欲しがりません勝つまでは 空腹なだめて雑炊食堂の行列にならぶ
児の脱ぎ忘れた靴夕陽を吸っている しばし聞かざりし声を聞くような
下町空襲で十万死んだ 怒濤のような疎開者 わたしも山梨の山に逃れる
疎開者がむきだしで蠢く駅の地下道 負けまいと加わるボロボロの夢
疎開で借りた畑はとびとびで 背負子背負ってあっちの山こっちの山
遠州鍬に土の固さ 弱音はくまい 今に小麦がとれる さつま芋がとれる
この六首など戦時下に詠まれたものには出色の出来のものがあるとおもった。
もちろん発表で来たはずもない。が、
目の前の現実とそこに生きる自他を率直にとらえて、現実は悲惨なのに美しい。
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